昭和54年11月14日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
おかげの受け物、即ち御徳の受け物とつながらなければ駄目ですね。金光様の御信心はどこまでもやはりおかげを受けるという事、と同時にそのおかげがあの世にも持って行けると言われる、この世にも残しておけるという、御徳につながるようなおかげでなからなければ、神様の願いに応えておかげを頂いて行く事にはなりません。ですからどういうおかげの受け物を作るか。受け物が悪ければおかげが漏ると仰るから。
いよいよそれこそ水も漏らさんおかげの受け物を受ける、という事と同時に、それこそ相成るべくは、豊かな大きな受け物でなからなければならんという事になります。大きなおかげを、みんな願わん者はありません。けれども受け物が小さい。受け物は大きく持っておっても、それこそ御粗末ですから何処からか漏ってしまっておる。昔の御理解の中に、確かにお米を買いに行って、一斗なら一斗買うて来たと思うのだけれども、帰って見たら、もうちょこっとになっとった。
成程よく調べて見たら大きな穴が開いていた。と。道々ずっとこぼして来ておる、と言った様なおかげになっては出来ませんから。そこに伏せをする。破れておるところに伏せをする。その伏せというのはね。いわゆる仏教では御布施という、お布施。金光教では御献備と又は御初穂とこう言う。これは確かにね。たとえばこの世では何にも信心の徳も喜びも受ける事が出来なかったから、それでもうあの世では一つ本当のおかげを頂きたい。いうならば極楽があるというなら極楽に住みたい。
合楽世界がもしあるとするなら、本当に合楽世界に住まわして頂きたい、という願いを起こす。さぁもうあの世行きが近づいておると言う様な老人は、なら極楽行きは出けんかと、合楽行きは出けんかというとそうではない。そこにはたった一つの手立てがある。それこそ我情を捨て我欲を捨てて、たとえていうならば財産をその人が持っておるとするならば、その財産をどうぞ合楽教会にお供えして下さい、と言った様な遺言でも書いておくようなおかげ、も書くまでが大変なんだけども、そういう手法がある。
それがいうならば立派なお布施になる。今迄も破れだらけておったのが奇麗になる。それだけでいうならばあの世の、合楽世界へのいざないというかいざなわれる。そこには道々に、いうならば明かりが灯るほどしのものだ、という事であります。だからおかげの受け物、というのは色々あるわけです。ね。一生懸命御用が出来ると言った様な事で、いうならば、あのうおかげの受け物を作っていく人がある。ならいよいよ本心の玉を磨くものだ。日々の改まりが第一だと、という事を心にかけさせて頂いて。
自ら自分の心の中から湧いてくる信心の喜び、その信心の喜びをそのままおかげの受け物、これなら間違いないですね。「真に有り難いという心すぐにみかげの初め」という、その真に有り難いという心をいよいよ育てていくという事。昨日は十三日会という事を知ってか、知らずか知りませんけれども、東飯塚教会の信徒総代という方が参って来ておった。それ三人でまぁあちらで、まぁいうならば信心の、いうならば永年の信心をしておられる方達ばっかりですから、いうなら信心の巧者な方達ばかりでした。
で十三日会が終わりましてから、応接間で末永先生と秋永先生やらが、いわゆるあちらの信徒会やらでよく顔見知りの方だったそうですから、一緒に話しをして、私もまぁお話を頂きたいと言われるから、私もちょっと出らして頂いてもう夕御飯になりましたから、夕食を皆に差し上げました。総代さん方も二、三人残っておりましたから、一緒に夕食をさせて頂いたんですけども。お酒が段々入ってあるその方に、本当にどういう信心をさしてもろうたらおかげを受けられるでしょうか、ち。
そんなにあんた簡単に教えられるもんかい、と言った様な話しからでしたけども。兎に角ね。あのういうならば本当の事、本音をまず出さなければおかげは受けられんち言う。只自分のおかげを頂きたい、どうぞと言うとこだけじゃなくて、ね。だからちっとお酒を頂きなさい。それこそ私が酔わせて聞きたい事がある。本音を聞きたいというたら、その方達が次々に話すんです。
実はまぁ合楽合楽というけれども、まそれこそ冷やかし半分であったとこういう。次にはね。いうならばまへまな事でも言うたら、本当な信心はこれだぞと。むしろま信心の討論でもしたいという思いでやってきたんです。ある人は実は、私は理髪屋でございます。私が入信する時に、その理髪屋さんのお道具を売りに来た。ところがその良いカミソリを一本忘れて行っとった。それでそれをネコババした。
まあ自分のギリギリのところを話されるわけですよね。先生こげな事は誰でん話さん事でしたけれども、その大久保先生ですね先代の。大久保先生と私にだけ話す、と言うて話されました。その事がどういう事で、大久保先生に分かったか知らんけれども、それを直ぐに返しに行けと言われて返しに行った所から、私の信心が始まった、というふうに言っておられます。
本音を吐いてきたんですね。そしてね私は本当は、いうならばその信心の討論でもするつもりで来ましたけれども不思議な事です。三人ここに並んでお取次頂来ましたら、私はもう親先生の顔がまともに見られませんでしたと。頭を下げまた下げたままあの御礼を申さして頂きましたら、もうどこから湧くか分からんけれども、ま何やら分からんけれども、涙がこぼれてこぼれて仕様がなかった。
とうとう先生の顔を見らんづくで下がりましたと言っております。そしてあの十三日会にあってもういよいよ合楽の信心の、いうなら素晴らしに触れたとこういう訳なんです、ね。おかげの受け物。私は思うですね。やっぱし神様の前には赤裸々に、いうならば出すところを出して、そしてそこから改まった生き方によって受け物を受ける、という手立てもありますね。
特にやはりキリスト教あたりでは、もうこの懺悔が出来なければ、もう本当の信心にはなれないと。絶対懺悔という事を重視するそうですがね。そんなに懺悔をせんでもいいけれどもです。それこそ詫れば許してやりたいのが親心と言われるから、ま許されるから、いいようなもんだけれども、いうならそういう本音の所を出して、そして願うといういうならばおかげの受け物を作る、作って行くという。
まぁそれ以来というものはすっきりとして、信心が頂けるようになるというわけなんです。だんだんおかげを頂いてまいりまして、めいめいがおかげを頂かなきゃならんが、まずは合楽教会大発展の御神願を皆さんが一人一人願うておられる。その合楽教会の御神願がいよいよ成就する事の為には、いうならば教会を挙げて打って一丸となって、合楽教会大発展のおかげの受けられる受け物を、いわば皆さん一同が作らなければいけない、大きくなってくる。
昨日信徒会長が発表しとりましたが、先日から家内と話しました。これはやっぱいよいよ本当な信心せないかんばいと。俺が信徒会長としておかげを頂いとるけども、皆から突き上げられる。これは俺達の信心が本なもんじゃない。十三年前に親先生から書いて頂いておる、「見ること見ること自分を見ること」と、しかもそこには友良先生の為にと、ため書きがしてある。
それをただ書いてもらったというだけだったけれども、十三年経って初めてその辺が分かってきた。自分が分かり出した。これは今迄のような秋永友良じゃでけん。今迄のような信徒会長であっちゃならん。みんなの信心の受けられる為には、これは本当の信心せねばいかんばい、というて家内と話したとこう。だからそれに気が付いて分かったならば、これから本当にそれに改まって行くという事が、また難しいよと言うて、私話した事でしたけれどもね。そこが分かっただけじゃいかんですばい。
これからなら名信徒会長としておかげを頂く為には、もう秋永先生が言われる事なら間違いない、と皆から信任が受けられるような、いうなら信徒会長にならねばならんという、そうしたまいうなら懺悔ですね。十三年間もこれをほっといたという事をこれからは、いうなら少しはましな信徒会長にならねばならん、という発表をしておりました。私は昨日十三日会で、朝頂いておったいろいろ頂いておった。
それがちょっとこう薄らいで分からん、忘れとったもんですから、その事神様にどういう事を頂いとったじゃろうか、と思うたら、ニュー大谷誕生という事を頂いた。それであの十三日会の御祈念を終わってから、今日はニュー大谷という事を頂いたが、勿論これは新しい金光教という事であろう。大谷という事は金光の前名が大谷といところですからね。今は金光町と言うけれども、新しい金光教。
だから合楽で頂いてるのは新しい金光教。これからの金光教はこう変わらなければいけない、という事は皆さんがいつも頂き続けておられる事なんです。ね。だからそれが認められるという事の為に、私はそれを聞いてもらおうと思ったけれども、どうしてもそのお夢を思い出せなかった。そして最後に信徒会長が、その発表しておるのを聞いて、ははぁこれだなと思うたですね。
例えば親教会はもうそれこそ、もうそれこそ最高の人情を使うて行かれる。合楽では最高の神情を使うて行くと言う様に、もうそれこそ天と地ほどに違う。人格的人情的にはもうこれより素晴らしい、人情を使われる所はなかろうと思う位な人情。その人情と神情がいつも何とはなしにピッタリ来ないわけ。それを昨日でしたかね。一昨日でしたかね聞いて頂いたように、やはり神情人情のコントロールが出来たとこに、どういう人間心を使われてもです。私共がそれを喜びにしていくコントロールがいるのだと。
熊谷さんが頂いておられるように、お刺身を丸めてとろろ昆布で食べておるお知らせを頂かれた。いうならばお刺身というのは生臭気と言うてもいいでしょう。ま私共が持っておるいわゆる人間的な、いわゆる人情と言うてもいいでしょう。それを喜びあの神情と一つにする為には、その喜びというもので巻かなければそれは頂けない。人間心で言われるこちらは神情で受ける。
昨日もその事を話したんですけれどもね。私の神情というのは、例えば人情の最高の人情というのはなら親孝行でもです。それこそ撫でたり擦ったりもうそれこそ親を奉る。それが親孝行の最高の親孝行と人情ではそうです。それこそ二十四孝ではないですけれども、中にありますようにね。親が病気をして休んでおる沢山な蚊がおる。自分はその傍で真っ裸になってその蚊を自分の身一つに受けて親を楽にしょうとする。
寒中に筍が食べたいと言う。この寒中に筍なんかあろう筈はないけれども、親が言われるから、と言うて筍を掘りに行ったと言った様な生き方を、ま人情的親孝行と言うのでしょう。私のは筍食べたいと言うても、この寒中にどうして筍があるかとこう言う。いうならば私の場合は、それを神情一つで行くならば、蚊のない世界がある。それこそ筍以上の筍がある。例えば足腰揉んであげる、と言うて親が足腰痛まん程しのおかげが頂けるのが神情だと。これは私の方ば見て下されば一番分かるでしょうが。
父が九十三までも長生きのおかげを頂きましたけれども、九十三の年まで、いうならば福岡あたりまでもお相撲見に行けれる位におかげを頂いとりました。痛い痒い言うた事がありませんでした。私が撫でたり擦ったりした事は一遍もありませんでした。けれどもやはりこれが極楽だろうかというおかげ、擦ってもろうたり撫でたり、いわばせんですむ程しの本当の親孝行、神情によっての親孝行には、親の上にそういう現われるんだという事が私の生き方。だからも全然違う。
だから見方によっちゃ親に足も揉んでやらん肩も揉んでやらんという事になりますけれども、本当のこと言うたら、いうならそういう事を子供にしてもらわんでも立ち行くような、親がおかげ頂いてくれるという事の方が本当だと、私は確信してますから神情でいく人情でいく。ところがそう言うとったんでは親であり子である、というのですから、いつまで経ってもそこに何かを溝のようなものを感じます。
そこでそれを私共が信心の喜びで答えを出していくという、とろろ昆布でその生臭気の魚を包んで頂く、と言う様な手立てがいるという事です。ね。これは親教会に対する、だから頂き方というものが変わってくるだろうと、ね。昨日の御理解でしたかね。一昨日に申したようにですね。合楽全体としてのいうならば、もっと素晴らしいおかげの受け物は、本部なら本部とても同じ事。教務所なら教務所とて同じ事。
そう言われる事を有難く受けられるじゃなく、それを有難いという一緒にコントロールをして、そこに有難いという答えが出てくる所まで信心を推し進めて行かなければならない。そこに成程合楽の生き方、というものが認められる。昨日お話をさせて頂いて、最後の締め括りをさせてもらうのに、どういうふうに締め括らせて頂こうか、と思って話しに詰まりましたから、お話し中に御祈念をさしてもらった。そしたら御心眼に『野原で野点をするお茶ですね。その準備がしてある所を頂いた。
そして私はふっとその事にヒントを得て、思いついた事は、昔こんな話を聞いた事がある。或るお茶の名人達人と言われる、お茶の宗匠と乞食との出合いである。その乞食もなかなかたしなみを持った、お茶のいうならば心得をが出来ると言うので、ま乞食とそういうお茶の宗匠という者の付き合いが始まる。そして或る日近所、その乞食が自分の住まっとる近所の野山でお茶を一服上げたい、とこう言うのでまそこへ野山に行った。
ところが成程自在が掛けてあってお湯がシャンシャン沸いて、そこにお茶の道具が全部揃えて置いてあるけれども、その当の乞食さんがやって来ない。どうした事だろうかと思って、ふっと気が付いたのは、はぁこれが茶道これがお茶の道だと悟って自分でお茶をたてて頂いて帰ったとこう言うのである。いうならばお茶をすゝらしてもらうならばです。いうなら前に乞食の、いわゆる見苦しい姿があったんでは、折角のお茶がおいしくないだろうと乞食はその、いうならばゆかしい心を使ったわけ。
それを悟った宗匠がその、それをま本当にお茶の精神というものはこれだ、と言うてそのお茶の乞食の事を誉めたとこう言うが、それは達人であるから分かるのです宗匠が。なら合楽の信心でもです。本当に信心の達人本気で求めておるという人が合楽にきたら絶対離れられなくなる。合楽の素晴らしさに。阿倍野の先生は合楽を評して、もう合楽の先生こそ、教祖様の再来だと言われたという事です。
今日本一と言われるあの阿倍野の先生。泉尾の先生は、大坪先生には適わんち、言われたという事です。何処が適わんのか私知らんけども、そういうふうに言われたという事を、あちらの青年教師の方達が見えた時に聞かせて頂いて、何かそういうパンフレットのようなものが出けております。合楽の信心はこうだ。阿倍野の信心はこうだ、というふうにね。阿倍野は有難いの一念で生まれた教会。泉尾は願いの信心で立っておる。合楽は教えで立っておるといったような意味の事が書いてあったですね。
それをその時にそういうふうに言われたと言うが、達人が見れば分かるのです。私は泉尾の先生とは一遍しか、今度の大阪行きで会っただけの事です。五、六年前だったでしょうか。阿倍野にもほんな一回お会いしただけなんですね。けれども達人が見れば分かるのです。この人の信心がほんなものかほんなものでないかという事は。ところが世の中には、そんな達人ばっかりはおりません。あげな乞食と一緒にお茶飲むてんなんてんて、その精神な分からずに形だけを言うわけ。
合楽の場合でもそうです。合楽の信心は乞食信心だ、と昨日皆さんに話しを聞いてもらいながら、乞食信心乞食信心という事を、私は思うたんですけれども、今日の御理解で受け物という事を言うならばね。いうならもらう事ばっかりおかげを受ける、という事ばっかりだと。だからこれはも乞食信心だと私は思うたね。
おかげの受け物というものは豊かなおかげ、ね。大きなおかげ頂きたいなら大きな心、豊かな心というものが、受け物になからなきゃいかん。小さいならば小さいおかげ、大きいならば大きいおかげが受けられるという事は、もう理の当然である。しかもそれが御徳にまでつながる、と言う様なおかげの受け物を頂こうとするにはです。それこそ最後の死んでもままよ、というような信心。
そして真の信心を求めての、いうならば受け物であり豊かであり大きいである麗しいである、という受け物が出来た時に、豊かな大きな麗しいおかげともなってくる。そういうおかげを受けた時に、初めて合楽の信心が皆に認められるのではなかろうかと言うのです。乞食信心から本当の信心。それにはね、本部とでもいうなら、いうならば教務所の生き方とでも親教会とでも、それは人情と神情ではありましょうけれども。それを私共が有り難いと答えを出していくいけれる。
とろろ昆布で巻いて頂く、という生き方をもう一押し、いうならば親教会にお参りをして何にも頂いて帰って来なかったと。御大祭なら御大祭の時に参って。それを私共が自分の信心の工夫によっておかげを頂いた、という事になればもっと親教会に対する、いうなら考え方も、いうならば大祭なら大祭のお参りなどでも、本当言うたらこれだけの御比礼を、今合楽は頂いとるですから。親教会の大祭ともなったらそれこそ親教会が、それこそ割れるような参拝者なら参拝者が出来なきゃ。
もう合楽が、いうならばあそこに三列、横の腰掛があります、真中の一列だけでもざあっとその合楽の人で占められる位な参拝があったら、善導寺の教会のお広前は一杯になるでしょう。親として子として、その位なおかげは頂かなければね。分からんところで、いかにおかげを頂いておると言うても、やはり形の上でもそんなおかげを頂かなければです。人が本当なものと認めてくれないです。そうでしょうね。
だからこれから親教会の御大祭というたら、皆さんもどうでも一つあのうそういう有り難い、と答えの出るようなコントロールをさせて頂いきながら、ひとつ親教会親教会、とこう心で思うとっても、形に現わさなければそれが一般に通用しない。私はそのお話半ばにその頂いた乞食、とお茶の宗匠との出合いというか、その茶席の話をしながら、素晴らしい表現だなぁと私思いました。ね。達人なら分かります。
私共がどうしとっても、乞食のような姿をしておっても、あぁこの人の信心は素晴らしいけれどもね。それがならば、昨日冷やかしに来たひとつ反発でもしてやろうか、というような気持で来とってもですね。ここへ来れば頭が上がらん程に、何か分からんけど涙がこぼれたというようなものがあるんだけれども、それを周囲から見取るだけでは、合楽はというふうな言い方やら見方をされておったんでは、いつまで経ってもいうならばいよいよ御神願が成就という事にはならないね。
今日は皆さんに、めいめいのおかげの受け物という事でしたけれども、これをも少し大きく言うて、合楽全体の教会としての受け物。それには皆さん一人一人がです。乞食信心から本当な信心を目指してもろうて、どういう事とても調和する。どういう人間心とてもそれを、コントロールの出けれる、いうならば内容をもう一段進めて、豊かな心を頂きたいと思う。ね。
それには最後にあるように、私共がね、いうなら本気で一心の信心、ま死んでもままよ、の、と言うと大変厳しいようですけれども、それは一生懸命という事なんです。死んでもままよという事は。そこん所に一生懸命の焦点を置いての、これからの信心でありたいと思います。それはそのまま合楽教会の受け物、という事になるでしょう。勿論銘々も水も漏らさん受け物を作りたいですけれどね。
どうぞ。